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英彦山神宮

2017-01-10 (火) 18:36:47 (319d)
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https://youtu.be/dYD9N1VAJHU

英彦山神宮(ひこさんじんぐう)は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社。
通称「彦山権現」。日本三大修験の霊場として栄えた神社である。
英彦山は北岳・中岳・南岳(主峰:標高1200メートル)の3峰からなるが、中央の中岳の山頂から山腹にかけて上津宮・中津宮・下津宮があり、その下に奉幣殿がある。また英彦山全域に摂末社が点在する。

【公式サイト】http://hikosanjingu.or.jp/

創建・伝承

英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に猟師の恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。
また別の伝承では祭神忍骨命の降臨した地とされて山上に一祠が建てられたのが起源とも云う。清和天皇代の貞観7年(865年)に従四位上を授けられたとあり、延喜式神名帳にも忍骨命神社として名を残す。
いずれも伝承で実際の歴史は、11世紀初頭に増慶によって中興されるまでについては10世紀の「太宰管内志」等わずかに残るのみである。しかし早くから神仏習合し彦山「権現」の名を用いていた。12世紀には、後白河法皇撰の梁塵秘抄では「筑紫の霊検所は大四王寺、清水、武蔵清滝 豊前国の企救の御堂 竈門の本山彦の山」と詠まれており霊山としての英彦山はこの時期には中央に知られていたことが分かる。
「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て嵯峨天皇に上申し詔によって[日子山」を「彦山」に改めたとされる。

概史

12世紀より天台宗に属し、西国修験道の一大拠点として栄えた。元弘3年(1333年)、後伏見天皇第八皇子の長助法親王(後の助有法親王)を座主に迎えて以降、座主はそれまでの輪番制から世襲制となった。現在の社家の高千穂家はその末裔である。
当時僧坊3000余、四十九窟(行場)を有するといわれたが天正年間(1573年~92年)秋月氏・大友両氏の兵火が及んで奉幣殿をはじめ社殿が焼失、江戸時代初期1616年に小倉藩主細川忠興が奉幣殿(当時は大講堂)を再建した。
焼き打ちや寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。
明治の神仏分離により修験道が廃止され、彦山座主であった教有は還俗し高千穂と称した。 九州彦山山伏の本山であった霊仙寺を廃し神社となって「英彦山神社」に改称し,教有は大宮司となった。1883年に宮司の高千穂宣麿が男爵を授けられ、華族に列した。1898年(明治30年)に官幣中社に列した。1975年、現在の「英彦山神宮」に改称した。

英彦山神宮 .jpg英彦山神宮の参道.jpg英彦山神宮  .jpg銅の鳥居.jpg英彦山神宮の獅子舞.jpg英彦山神宮 神輿.jpg英彦山神宮 稚児舞.jpg英彦山神宮英彦山神宮 参拝.jpg

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